主な共演邦人アーティスト

発行:(株)レッスンの友社/TEL:03−3393−5921

2003年4月号 「ルバートの効果的表現を探る」
2001年1月号 「クローズ・アップ」競争するのはいいけれど
足の引っ張り合いは馬鹿げています



2003年4月号(P14〜17)「ルバートの効果的表現を探る」大名人の演奏にはヒントがいっぱい!

自分自身のルバートを見つけよう


ルバートは確かに演奏者の特権である。逆にいえばルバートのない演奏なんて、何とかのないコーヒーよりももっとまずい?でも「完全イン・テンポこそわが信条なり」とばかり押し通すのも、それはそれで自己主張には違いないし、時にはその推進力に感動してしまうかもしれない。じゃあ、どうするの?ってことになったら、もともと人間の感覚なんか、いいかげんなものであるというのが私の見解で(笑)、他人に演奏させる指揮者ならともかく、自分が演奏者の場合、クソうるさいことを言う人ほどつまらない演奏をするもので、自分自身に置き換えてみても、たとえ自分の好みが絶対にゆるぎないもんだと思っていても、朝起きて頭痛がして吐き気がしてきた時に、自分の命より大事だと言ってた音楽や解釈が、もうそれは騒音でしかなく、聴きたくもない訳だから。

そんなわけでルバートについて何らかの定義を述べてもはじまらないと思う。ただし演奏上効果的なルバートというものも実はあるし、またおぼろげではあるが、ルバートのやり方のルールみたいなものもある。わかりやすく説明できるのは、ショパンのバラードの1番とかね、シューマンの文学チックやつとか・・・・たぶんこれはほかの方が説明するでしょう、きっと。だから私のテーマはルバートにある慣習的なものについて。「ちょっと意味不明なんだけど、ここはおそくするらしい・・・」みたいなやつだ。先生に聞いてもうまく流されちゃう所だよね、ふふふ。そういうものは流派というか、どの先生に習うか、先生たちのルーツがどこに在るかということで変わってはくるけど、でも今は先生たちが昔のピアニストたちのような強烈な個性を持っていないから、教え方によって大きく変わることもなくなったと思われる。

元来その曲が現在も名曲として評価されてるってことは、その曲の名演がいくつも存在していたってことなんだ。名演奏がなければ、その曲が名曲かどうか誰もわかるまい。つまりその曲の解釈そのものが、名演奏の歴史の上に乗っかった物なんだよね。そういうことから考えると、過去の大ピアニストといわれた人たちの演奏をむさぼり聴くと、ルバートや解釈のヒントがいっぱい転がってるってことだ。

大名人達、今でも録音がのこっているのが有難い。しかしそうは言っても、ほとんどが最晩年の録音。例えば現在の私達に身近だった巨匠ホロヴィッツの場合である。もしあのホロヴィッツとて最晩年の録音しか遺されていなかったら、私達は彼の芸術の片鱗しか知ることができない訳だし、コルトー等とさほど変わらないピアニストとしか認識できなかったかもしれない。パハマン、ザウアー、パデレフスキーやローゼンタールといった人達はまさにそういう状態に置かれているのだ。さてさて昔と言っても例えばラフマニノフ、ホフマン、リカルド・ヴィニエス等の理知的な技巧に支えられている人達の場合は、逆にその技巧が現代にも通用しそうだから余計に不思議な感じがする。その誇張的とも言える個性がむしろあからさまな感じに聞こえて、妙な違和感を与えるのが面白い。そこへいくと気ままな感じのテンポ設定のフリーデマンや現代的な感覚との中間点にいるモイセイヴィッチ等は、むしろ現代人に与えるインパクトは薄いと思われる。また古典物を得意としたエドヴィン・フィッシャーのピアノは現代においても、魂を揺さぶる新しさを持っているのと反対に、モダンな音楽を次々と初演していたマルグリット・ロンの演奏が、いかにもアンティークな装いをまとって聴こえてくるのがまたまた不思議である。エリー・ナイやマイラ・ヘス等のベートーヴェンだったら十分なくらいに普遍性を持っているのに、最近はリリー・クラウスの情熱過多のモーツァルトは忘れられつつある。今にして聴けば、バックハウスの使うルバートも多量で実に時代がかっていて、ついこの間まで評論家たちが「ベートーヴェンを無骨に裸のまま聴かせた」等と評価していたかと思うと、笑ってしまう。テクニック的には古いタイプだったかもしれないが、シュナーベルの演奏の中にむしろ新しさが潜んでいたのである。

こうした過去の名人達を更に細かく見て行くと、そこには意識的なルバートと、本人の癖または嗜好のようなルバートと、2種類が存在する。意識的なルバートといえば、現代においてはアファナシエフだのポゴレリチ、ウゴルスキー等が思い浮かぶが、やはり作曲家の生きていた時代に近いせいもあるのか、往年の演奏家のルバートの説得力とその意外性のインパクトは絶大だ。

意識的なルバートをする人達はまずパデレフスキー・・・・このスケールの大きなイメージを与えるやり方はルービンシュタインによってさらに洗練された。コルトー・・・・ロマンティックな崩しであり、フランソワ等もその影響下にあるが、最近ではあまりやらないやり方である。でもルバートというイメージには一番近いやり方でもある。ラフマニノフやホフマン・・・・現代的なテクニックを持っていたので、もっぱら間合いとか大きいリタルダンドが主だ。いくぶん不自然さもあるが実演で聴けば「ハッ」とする様な効果をかもしだす場合も多いだろう。ホロヴィッツはやはり意識的なルバートをするが、コルトーとラフマニノフの折衷型であると思う。・・・・彼等のルバートには好き嫌いもあるだろうが、まず「なぜ?」という、聴く者に何か強いメッセージを与えるものであると思うし、時代考証的な空気をも把握できよう。バックハウスやローゼンタール、パハマン等は嗜好形のルバートをする代表格である。それはウィーン風のリズムだったり、ただの唄いまわしだったり、分析の難しい種類のものだ。しかしそれらは十分真似できるし、逆にルバートの好き嫌いというより、その本人自身の個性の見定めになるくらい、はっきりと曲の全体を覆うものである。ロンがやや古めかしく聞こえて来るのは、おそらく純粋に自己の感覚が先に立っているためで、こうした感覚的なピアニストはルバート自体も当時のフィーリングに支配されているため、アンティークな風情を持つ。しかしここから学ぶべきものは多いと思う。

極端な事を言えば、ルバートがルバートとして聞こえて来るのは往年の演奏家に限られているとも言える。だからルバートを学びたければこの巨匠たちの演奏に学ぶのが一番良い。それをまとめてみれば、どのフレーズでもルバートができるという事と、逆に絶対にルバートをしなければならない個所も存在しないということ。確かにルバートを行う多くの場所は、ハーモニーが変わるところや、フレージングの始まりや終わり、曲のイメージが変わるところ、旋律のさびの部分等、何らかの変化が求められる時ではあるが、よりロマンティックにしようとか、より自分の個性をだそうという意識のもとでのルバートは、最近少なくなっている。やはり現代の演奏家はかなり個人の好みは押さえられてしまっているということだろう。ホロヴィッツのピアノをよく見れば、かなりいいかげんに音を省いたりしているし、譜読みの間違いがあったり、無意味な爆音があったり・・・おそらく現代のキーシンやアムランと比べたら、ピアニストとしてはずいぶん問題があることになろう。しかしお金を払って行くなら断然ホロヴィッツだと思わせてくれるのは、彼が魔術を持っているから。それは魔術であるので魅惑的だし夢があって素敵なのだ。宇宙的な技術の高さと完成度を誇るキーシンやアムランが凄いのはわかるが、あくまでも現実的である。音楽というのはそういう魔術がいっぱいあればあるほど、素敵なものになって行く。その魔術の1つがルバートである。ルバートはさらに個人的な自由が活かせる空間であり、例えば私がやって最善であるルバートも他人がやればかなりダサかったりもする訳だ。

ここは皆さん、人のお薦めには乗らずに、自分自身で多いに工夫を凝らしてみてください!!


2001年1月号(P38〜41)「クローズ・アップ」競争するのはいいけれど足の引っ張り合いは馬鹿げています

講座を受けたからって、すぐに弾けるようには・・・・・

―NHK教育TVの「趣味悠々」はとても好評でしたね。
「お父さんで初心者みたいな方々との交流はそれまでなかったので、そういう方と新しい交流ができたのが楽しかったですね。
前にキーボーズ(NHK教育TVの子供向け番組『トゥトゥアンサンブル』のメイン・キャラクターをやりましたけれど、そのお陰で、子供の視点に立ったコンサートがどんどんできるようになって、広がりを持てたんです。
今度は『趣味悠々』でピアノを本当に楽しんでいらっしゃる方々とのお付き合いが広がりをみせて、自分の活動の面でも考え方の面でも、いろいろヴァリエーションができて良かったと思っています。『趣味悠々』の場合はテレビですから、きちんと見せなければいけないということで、出演者にも多少無理をきいてもらうこともあるわけですが、実際は大人になってから趣味でやるのですから、今さらバイエルなんかからやる必要はないわけです。弾きたいと思った曲を、3年、5年かかるかも知れませんが、マスターするようになさったらいいのではないかと思います。」

―収録はどんな具合に?
「録り方はバラバラで、レッスン部分はそればかりまとめて録画しました。まずレッスン風景を一応全部録ります。それをディレクターが見ていて、あの指使いをもう一度録りたいとか、できなかったペダルができていく過程をもう一回録り直したい、などということが当然出てくるわけです。ところが大人ですから、録り直しの時にはもうできちゃってるんですね。それが困っちゃう(笑)。できちゃったことを、もう一度できなかったところから再現してやってもらわなければならないわけですが、彼らは初心者ですから、一度できてしまうと、できなかったときにどうやっていたか、思い出してもらうのが大変でした(笑)。
番組に出てくださった方々は、テレビに映るから、弾けなかったら全国的に恥をかくということもあって、かなり一所懸命にやってくださいましたから、確実に上達していったと思います。インターネットなどで、『課題曲が難しい』とか『いきなりあれはないだろぅ』などと随分言われましたが、それに対していちいち自分で出張って行って、『じゃあ、こぎつねコンコンが弾けたからと言って、あなたはピアノが弾けたと満足するのですか。やはりジムノペディくらいは弾きたいでしょう。あの番組では“今すぐ始めるお父さんのために”と言っているけど、“今すぐ弾ける”とは言ってないでしょう。テレビは時間が限られているからあのペースでやっているけれど、本当はあれを3年かけてやってほしい。バイエルや子供の曲が3〜4曲弾けるようになるよりは、ジムノペディなりショパンなりを1曲3年かけて弾けるようになる方が僕は価値があると思うのだけど、その考え方は受け入れられないのでしょうか?』と逆に彼らに問いかけたら、皆さん納得してくれたようです。今のコンサートでもそういう話が出ると、冗談ぽく言うんです。『すぐになんか弾けるはずないじゃないか。そんなすぐ弾けると思っているあなたは図々しい』と(笑)。『専門家だってそうは簡単に1曲すぐに弾けるようにはならないでしょう、いろんなことを考えて、時間をかけてやっているのに。講座を受けたらホイホイホイって弾けるようになると思っているあなたは図々しい。時間をかけてやるものだということを忘れないでほしいですね』ということをお話しするんです。
いろいろな考え方がありますから、一括りにはできませんが、ボクは、大の大人が『こぎつねコンコン』を一所懸命練習している図というのはあまり素敵だと思わないし、皆さんもそれは望んでいないのではないでしょうか。だから時間はかかりますが、そういう風にやった方がいいのではないでしょうか、という意見を言っているだけで、それが絶対ではないし、それに従うこともないと思います。」

コーヒー牛乳でコーヒーの昧が分かりますか?
トヨタふれあいコンサートで
―近年は全国を回ってコンサートをかなりなさっているようですね。
「ボクは昔からイヴェントなどが得意なので、お客さんの入りを気にしなくていいコンサートが割と多かったので有り難いのですが、キーボーズをやってからは子供のお客さんが圧倒的に多くなりましたね。番組の放送中は、大阪とかでイヴェントをやっても、25000人くらい集まっちゃうんですよ。普段は絶対入らないようなホールでも1300人くらい入るんです。奈良のあるホールでは、少し狭いですが、ホール始まって以来の集客だったそうです。
キーボーズというのは2年前のキャラクターだから、もう子供たちの頭の中からは消えているはずなんですね。ところがキーボーズはピアニストで、ピアノをやっている子供たちがキーボーズを見た感覚は、ボクたちがリヒテルやアシュケナージを見たというのと同じ様なものなんです。彼らが毎年来日しなくたって、見たという記憶は残っていますよ。そういう感覚で子供たちはキーボーズをとらえているから、彼らの頭の中には残っているんですね。それは予想しない展開でした。ですから、今だにコンサートに行くと、キーボーズさん、サインしてくださいと子供たちから頼まれます。
あれはとてもいいキャラクターで、あのキャラクターで出ると、ブラームスのカルテットを弾こうが何を弾こうが、子供はみんな喜んで聴いてくれるんですよ。ボクは以前から言っていることなんですが、今までのファミリー・コンサートのやり方は、『クラシックは難しいものではありませんよ。肩が凝るものではありませんよ』と言って、易しいものや親しみやすいものを聴かせますが、あれは嘘です。本当のクラシックというのは、内容があるからこそ心を射抜くパワーがあるのであって、難しくても、その雰囲気を味わう良さがあるんです。シェイクスピアをアニメでやって悪いとは言いませんが、シェイクスピア本来のものは味わえませんね。コーヒーは苦いものじゃないと言ってコーヒー牛乳を飲ませて、『コーヒーは美味しいでしょう』・・・・・これで果たしてコーヒーを分かったと言えるか?むしろ苦いコーヒーを飲ませておいて、苦いけれどもコーヒーはこういう味なんだ、ということを分からせてあげた方がいいと思うんです。
ですから、ボクはキーボーズのキャラクターで出て行って、難しいクラシックをやるわけです。クラシック本体はいじらない。逆転の発想ですよ。キーボーズが出てきてお友達になって、『キーボーズがブラームスを弾きます』って言うから、クラシックが好きか嫌いかまだ分からないけれど、一応聴いてみる。終わったらキーボーズが『さあ、どう思うかな?』。子供たちは首を傾げて『ウ〜ン』。これでいいんですよ。一応本物は聴かせているのですから。大人になったときに、例えば弦楽四重奏を聴いたことがない人に『ラズモフスキーの演奏会に行きませんか?』と言っても、行きませんよ。でも、子供の時にキーボーズがファミリー・コンサートの中でそんなのをやっていたなあ、というような経験があれば、もしかしたら行くかも知れないじゃないですか。
キーボーズのような集客できるキャラクターが一人いて、面白いことを言って大笑いさせる。そしていざ音楽が始まると、ヴァーグナーだったりする。その解説も面白くして、例えば『この曲は難曲と言われておりまして、非常にナンカイ(難解)でございます。ナンカイ聴いても分かりませ―ん』とかなんとか言ってね(笑)。キャラクターがそうやって聴衆をリラックスさせて聴いていただく。でも内容のあるものをやっているから、リラックスして、聴こうとさえ思っていれば、細部までは分からないでしょうが、曲の持っているイメージやパワー、言おうとしているそのエネルギーのようなものは、名曲であればあるほど訴えかけるものはあるわけだから、『何だかよく分からなかったけれど、う〜ん、こういうのがクラシックか』と興味を持ってくださればこっちのものなんですよ。
そういう使い方があのキーボーズはできるので、あれはいいキャラクターだったなと思っています。ボクがやっているそういう類のコンサートは、大笑いさせておいて、パッと切り替えて、真剣にやらなければ弾けない曲をやりますから、普通のコンサートの倍神経を使います。専門家の仲間が来ると、『大変なことをやっている』と理解を示してくれます。だから仲間内では悪口は言われません。『斎藤クン、死なないでネ』何て言われますよ(笑)。実際に共演して同じ舞台に立つと、すごくいいことだと言って更に理解してくれます。
ウィーン・フィルのシュミードルも是非出してくれと言って、クマさんのTシャツに尻尾を付けて出てきて演奏してくれたり、パリ管の首席チェロ奏者も友達で、ボクがキーボーズで出たら、向こうはトイレにあった『安全第一』と書かれたヘルメットを被って、チェロを振り回しながら出てきたりして(笑)、ドビュッシーのチェロ・ソナタを弾くんです。
そんな具合で、結構いいメンバーの仲間たちが協力してくれて、『斎藤雅広と仲間たち』のようなコンサートができています。

ピアニストにもそれぞれ役割がある

演奏以外のところではいろいろと趣向を凝らしますが、演奏する曲はちゃんとしたものをやる、という路線で来ましたから、『趣味悠々』でも『いくらお父さん相手とは言え、ちゃんとした曲でちゃんとしたレッスンをしましょう。ボクが言うことも、アーティキュレーションのこととか、普通専門家でも外国へ行かなければ勉強できないことをきちんと言います。勉強していけば、結局はそこに突き当たるのだから』ということで始めたのです。最初はそれでもめましたが、二回目の放送がオン・エアされた後、『ブラボー! かつてこんないい番組があっただろうか。NHKの人達はこの番組の内容の濃さをちゃんと分かって放送しているのかどうか分からないけど、素晴らしい!がんばれ!』というようなFAXが投書として来たんです。書いてくださったのは中村紘子さん。それでNHKは上を下への大騒ぎになった(笑)。そうやって先輩方が応援してくださったりとか、そういうことに支えられて、お陰様でここまで来ました。」

―先輩が後輩を応援したり、仲間で協力し合ったりというのは素敵ですね。
「クラシック界が活性化してないというのはよくないと思うんです。例えば評論家の方々も、上からものを見て若い人達に教えてやるというのではなく、クラシック界を活性化させるためと考えて、若い人、才能ある人をもっと引き上げるようにしていただきたい。ボクも中堅になってきましたけど、若い人、才能のある人に対しては、自分が矢面に立てるところは立って、若い人を出してあげる。彼らが矢を受けたら死んでしまうことでも、自分なら痛くない場合もありますから。そういう風にしなければ、活性化しないと思うんです。
今ボクにはお陰様で日が割と当たっていますが、業界が活性化していれば、いずれボクが沈んでも、また浮かび上がる道もあります。例えばフジコ・ヘミングさんに今、日が当たっていますよね。そういう人の悪口をみんなで言ってどうするんですか。普段クラシックを聴かなかった人達が、彼女のピアノを通してクラシックを聴いてくれれば、お客が増えるわけですから、みんなで彼女を応援してあげるべきなんですよ。で、日陰に行ったら、今度は次に日が当たっている人が頑張ってくれなければ、日陰の人達が出ていくことができないんです。
それぞれに役割があって、ボクがベートーヴェンのソナタ全曲を弾くのもいいですが、たまたまキーボーズのような面白いキャラクターで、初心者向けのコンサートができるわけです。これを小山実稚恵さんや清水和音君にやれって言ったって、できないと思います。ボクはできるんだからそれをやるべきであって、ベートーヴェンのソナタ全曲を集中してできる人のところへ、そのお客さんを回してあげることが大事だと思います。だからみんなで分担して、自分の役割を考えて、クラシック業界を活性化することを考えなければいけないのではないでしょうか。お互いに競争するのはいいですが、足の引っ張り合いは実に馬鹿げています。みんなで盛り上げていくことが大事で、それが自分が沈まないための道でもあると思います。
ボクは今、年間140回コンサートがあります。やり過ぎだとか、そんなにやって何儲けてるんだという人もいますが、クラシックの演奏家が仕事をもらえるということがどれだけ大変なことか、下積みが長かったからよく分かります。仕事が来ること自体、とても価値があるんです。仕事があるということは、そこで500人くらいのお客さんが聴くということですね。そのお客さんにクラシックとはいいものだと思わせて帰さなければいけない。それが責任です。その責任において面白いコンサートをやり、お客を増やし、クラシック業界の活性化に少しでもお役に立てればいいなと思っています。」

スクリャービンは隠し玉?


終演後のサイン会で―今度発売されたCD『マイ・ロマンス』の選曲はご自身で?
「はい。ファミリー・コンサートについてお話ししたのと同様のコンセプトで、名曲アルバムとは言っても、親しみやすい易しい曲ということではなく、割と捻った選曲になっていると思います。しかしあまりマニアックになっても売れなくなりますから、多少は考えました。一応ディレクターに聴いていただいて、いい曲だからこれで行きましょうということになったのです。ただスクリャービン(アルバムの綴り)だけは隠しておいたんです。絶対反対されると思って(笑)。
このCDのための録音日を3日とってあったのですが、ボクは割と録音は早いもので、2日日の夕方にはほとんど終わりました。それで、ディレクターに『スクリャービンにも1曲いい曲があるので、試しに録ってください』と頼んで録ってもらいました。で、『どうです、いい曲でしょう?』『いい曲ですね。録れましょう』(笑)。」

―斎藤さんとしては、初めからその曲を録れるつもりだったわけですね。
「そのつもりでした(笑)。『マイ・ロマンス』というタイトルと、それが最初と終わりに入っているというのは、録音したときの偶然です。スタンダード・ナンバーはボクの編曲とありますが、それは即興演奏です。ジャズ・ピアニストっぽく弾いています。『マイ・ロマンス』も何パターンか録っておいて、どれを選ぶか任されていました。その中で長さの違う二つがどちらも捨て難かったので、それなら最初と最後に入れて、他の曲を挟んでしまおうと。で、タイトルも決まっていませんでしたので、ただロマンスでは面白くないけど、『マイ・ロマンス』ならいいじゃないか、ということになったわけです。大人の方々に聴いていただける、渋いアルバムになっていると思います。」
―発売を楽しみにしています。ありがとうございました。