2003年1月号(P13〜15)「PIANIST interview」
常に挑戦する姿勢で若者を鼓舞したい! デビュー25周年の「青年」ピアニスト
《インタビュアー:百瀬喬》
あっという間の25年
・改まってお聞きするのもなんだけれど、この12月22日の紀尾井ホールのリサイタルはデビュー25周年記念なんですね。25年というのはどこを起点としているのですか。
「日本音楽コンクールに優勝したのが1977年で、その年から演奏活動を始めたので、2002年がちょうど25周年になるのです。」
・そうですか、25周年ですか、年をとるわけだなぁ。
「そうなんですよ(笑)。いや決してあなたのことを言ってるわけではないですよ。僕自身のことを振り返っているのです。特に室内楽だとヴァイオリンなど、若いじゃないですか、日本は。だからあっという間に一番年上になってしまうのですね。デビューした頃はそれこそ一番年下だったから、あっ、すみませんなどとやっていたんだけれど・・・・・」
・今は、引っ張っていく立場ですね。
「いやいや、おんぶしてもらってる方です。」
・ところでコンクールのときの人気は凄かったですね。確か“芸大のホロヴィッツ”とファンからは呼ばれていましたね。その先がすごく楽しみでした。
「でもね、ちょうど中途半端な時代だったんですよ。僕らより前の世代の人たちは、芸大に入って、コンクールに入賞でもすれば、もう一生安泰だというそんなイメージがありましたが、僕らを境に、コンクールに入ったことも、ただ単に音楽大学に入った程度にしか見られなくなってしまって、早くに外国に出た人もいるし、もちろん僕のように外国にいくのを考えてしまった人もいるなど、とても難しい時代でしたね。」
・芸大では松野景一先生でしたね。しばらく市川のオーディションで審査をご一緒したことがあって、その頃にうかがったんですが、大変な利かん坊だったとか。
「そうですか。僕達の頃の教官室、伊達純先生がいて、安川加壽子先生、田村宏先生などがいて、小林仁先生はまだお若い方でしたから。井口秋子先生がいらした頃とはまたちがっていたかもしれませんが、それでも教官室には独特の雰囲気、威厳がありましたね。例えば最近の芸高の学生を見ても茶髪だったりいろいろで、教師に対しても実にフランクなんですが、僕らの頃の先生たちはとても大きい存在で、友達とはとてもなれない人だという存在でしたね。そんな中で僕は相当にいい加減で、例えば友だちとよく卓球をしました。で、球をぶっつけたりして潰れるじゃないですか。そんなときに教官室に忍び込んで、ストーブのうえに置いてあるやかんのお湯をかけて球を戻すのは、いつも僕の役割でしたね。それで例によって入っていったらいつもと雰囲気が違うんですよ。シーンとしていて、突然会議中だよっと、怒鳴られてしまった。会議だったら会議って、札でも掛けておけばいいんだとつぶやいたら、次のときには札が掛かっていましたね。(笑)」
すべては必要に迫られて始まった!?
・学生の頃から、かなりユニークだったんですね。
「楽しくはやっていました。でも、時代が違いましたね。例えば、おしゃべりのある演奏なんていうのはほとんどなかった。あの頃は山本直純さんぐらいしかいませんでしたね。今はトーク付きなんてのも普通にありますね。僕の場合も最初は黙って、それこそ謹厳実直に弾いていたんだけれど、あるとき条件として、おしゃべりをしてくれるんだったら、仕事をあげてもいいよ、と言われたんです。で、最初は無理矢理におしゃべりも始めたんですが、そうしたら主催者が、ぜひ今後も続けてくれというのです。そのときは高齢者の方々が多く、中には初めて音楽を聴くという人もいると聞いたので、いろいろと工夫してしゃべりました。
・黙って、ベートーヴェンやシューマンなどを弾くよりはずっと楽しんでくれるでしょう。慣れてる人だったらともかく、初めての人には。
「そうなんです。例えば30分ぐらいかかる曲の場合は、何も知らないで来ちゃったらやっぱり解らないですよね。だからといって、30分の曲があるから行かないとなるのは、やはり悲しいし・・・・・。本当は語りなしに演奏できた方がいいんだけれど、とりあえずそういう人たちのために根回しするということも必要だと思うんです。それによって次の世代に繋いでいくことができる。」
・何年前でしたかね。NHKテレビで《お父さんのためのピアノ講座》の講師を務めましたね。
「2年前です。趣味でやるといってもいろいろで、本当の基礎からきちんとやりたいという人もいるし、また、取りあえず大好きなこの曲を弾ければいいという人もいたりする。僕はその後者のためのレッスンを進めたわけで、やっぱり大人になって何か弾きたいというときに、1年も2年も勉強して子供っぽい曲しか弾けないというのは悲しいですよね。そういう人たちのためにショパンの1ページだけでもいいからなんとか弾けるようにしてあげる。そういう気持ちが強かったのです。時間はかかるけれど、好きな曲を弾けたときの喜びは素晴らしいですよ。だからサティの《ジムノペディ》なんかを教材に選んだんです。どんなに遅く弾いてもしゃれた音楽になるでしょう。」
・で、クラシックの演奏は見事だし、編曲なんかにもしゃれたセンスを見せるし、またおしゃべりもなどと、非常に幅広い活動をしているのですね。
「すべては必要に迫られてです。こんな仕事をと言われるから、どのように対応するか、そうしているうちに、いろいろと仕事が増えてしまったのです。」
注文するお客様
・25周年のリサイタルですが、けっこうハードなプログラムですね。
「どうやってやるか、今いろいろと考えているんです。もちろんおしゃべり付きで、例えば《展覧会の絵》ですが、〈プロムナード〉は最初だけを弾いて、後はその部分を弾かないで、代わりに僕が学芸員になって、そこで次の曲についておしゃべりをするなどということもできるかなとか、絵も見せられればいいななどと、いろいろ検討中です。」
・ファリャの《火祭りの踊り》を最初に持ってきたのは?
「それは、ご挨拶です(笑)。いつものことです。」
・昔、『カーネギーホール』でしたか、映画の中でルービンシュタインが弾いていましたね、手を高く振り上げて。
「あれをやるんです。ウォーという歓声の中に、僕自身はウォーミングアップのつもり。」
・あんなに高く手をかざして、音をはずさないんですか。
「コツがあるのです。つまり手を落とすんではなくて、引き上げるのです。落とすときはスローダウンするのです。」
・プーランクを加えたのは?
「フランスものが好きなんです。友だちの中に、例えば、プーランクを弾かなくていいから、代わりに《メフィスト・ワルツ》を弾け、などと注文する人がいて、変ですよね。チラシで発表したら、それはいいから、これをなどという、そんなお客が僕の周りには多いのです。面白いでしょう。どういう人たちなんだろうって、考えてしまいますよ。」
・いろいろと多忙な中に審査員も引き受けたりしていますね。
「ええ、できるだけ、可能性のある人を見のがさないようにしたいからです。もともと、自由で、個性的な演奏が好きなので、そういう演奏をして、また可能性として素晴らしいものを持っている人が、審査員の好みで落とされてしまうのは堪えられない。だからそういう人が出てきたら、100点満点に近い点をあげてしまうのです。そのことで、最後の何人かに選ばれれば、それでいいんだと思っているからです。そうすると、何とか3位ぐらいに入るのです。」
若者よ、挑戦しよう!
・芸大時代にホロヴィッツにたとえられていたことは、意識にありましたか。
「今度ワーナーからリリースされるCDも、“ホロヴィッツへのオマージュ”と銘打たれています。僕達の時代は、今とは違って情報がすごく少なかった。その少ない情報の中で、ホロヴィッツとかルービンシュタイン、バックハウスのような人たちは神様のような存在だったんです。そして自分もいつかはああいう人になるんだという意識のもとに、一生懸命練習していたのです。すごく憧れの気持ちがありました。芸大にもバックハウスにすごく憧れている人がいて、彼はいつもベートーヴェンばかりを弾いていました。おろかだといえばおろかだし、クレージーだけれど、そんな傾向がすごく強かったのです。今度のCDは、その頃へのホロヴィッツへの憧れを表すつもりで、だからといってホロヴィッツの編曲ものを弾くとか、ホロヴィッツのスタイルを真似るというそういうことではないのですが、僕はホロヴィッツが大好きだ、好きだった、やったるぜ! というそんな気持ちを込めての録音です。そういうような気概は今の若い人たちにはわりと少ないでしょう。思い出そうよという、そんなCDなんですよ。ホロヴィッツと言っているのに、実は《ラ・カンパネラ》が入っているのです。これはホロヴィッツとは関係ない。だけれども、カンパネラというと、フジ子・ヘミングさんがいるでしょう。あれはあれで素晴らしいんですが、あれだけがカンパネラではない。若い人たちがカンパネラをこんなにゆっくり弾いてもいいんだと思ってしまうのはやはり具合が悪い。あれはリストが、パガニーニの超絶技巧に魅せられて、すごい、なんてすごいんだ、こんなことができるんだ! と思って書いた曲だから、センチメンタルに弾かれてはやっぱりまずい。フジ子さんの場合は別ですよ。あれは彼女の世界なんだから。年とったら別だけれど、若い人たちが最初から挑戦する気持ちを失ってしまうのは、やっぱり具合が悪いと思って、むしろ普通のカンパネラという感じで、もっと速く、ミラクルな演奏を示すつもりです。」
本人は、年をとったというけれど、これからも挑戦する気持ちを決して失わない、万年青年と感じたインタビューであった。
2002年12月号(P21)「今月のプレトーク」
みなさんのお蔭で25年 できればこれから先もずっと
早いもので今年デビュー25周年を迎えた。
「特別な思いはないのですが、こうして続けてこられたのは皆さんのお蔭と有り難く思っています。記念のコンサートは、趣向を凝らそうと、今、企画を練っているところです」
いつにも増して盛り沢山のプログラム。まず目を引くのは《展覧会の絵》だ。
「実は8月にレコーディングも済ませて、この12月に発売されるんです。って、うまい具合に宣伝させてもらっちゃった(笑)。コンサートは私自身がナビゲートしながら進めていくという、他にはない形です」
教育テレビで人気者になっただけに、地方の演奏会では聴衆の3分の1が子どもたちだという。そこから学んだことは多い。
「お子さんだけでなく、普段クラシックに縁のない近所のおじさんやおばさんたちが退屈しないというのが僕のコンサートの主旨です。『普通の人達』がクラシックのコンサートに来てくれるきっかけ作りをしたい。そうして、次の世代のアーティストたちが思う存分活躍できるための地盤作りをしたい」
クラシック・コンサートのあり方には一家言ある。
「クラシックは一部のエグゼクティブのものだという先入観が、実は演奏家の方にもある。それはクラシックの世界を狭くしてきた大きな要因のひとつです。狭い世界ゆえに、才能があるのに心ない扱いをされて挫折し、去っていった人のどんなに多いことか。たくさんの人々が会場に来てくれるようにするには、まず演奏家の意識改革から始めなければなりません」
本当はフランス近代の室内楽が一番好きなのだが、「一般向け」コンサートを積極的に開いているのは、クラシック界の未来を切り拓きたいから。
「演奏家にとってはどんな曲を弾くのも命がけ。みんなが命をかけて演奏しているからこそ、たくさんの人達に聴いてほしいんです。そんな偉そうなことを言っても、やっぱりホロヴィッツやルービンシュタインにはかなわない。でも、かなわないことを知ってから、より音楽を愛する気持ちが強くなった。偉大な才能が自分に与えてくれた夢の片鱗でもいいから皆さんに感じていただきたくて、僕は弾いているのかもしれません。これから先、どうなるかわかりませんし、続けていくことはいつになっても難しいでしょうけど、細々でもいいから、一生ピアノを弾き続けていきたいと思っています」
2002年8月号(P50〜52)特集「コンサートは体験学習〜子どもたちとコンサートへ行こう!!」
のびのびと自然体でコンサートにいらしてください −聴く子は聴く、寝る子は寝る、騒ぐ子は騒ぐ−
不自然な態度って苦手なんだ!
やあ!きみたち!クラシックのコンサートは何と言ってもマナーでしょう。マナーを身につけてぜひぜひいらっしゃい!!・・・・なんて言うことばっかりでしょう。マナーマナーって言われても困っちゃうよね。確かにお行儀よく聴いていただけるのは、うれしいです。もっちろんです。でも僕は・・・・不自然な態度って苦手なんだ。こちらにもそれは伝わるし、だいたいそんな風に緊張して聴いたって面白くないものね。例えばみんなは感じないかもしれないけど、飛行機でのスチュワーデスさんの笑顔って、とても不自然だと思う・・・・「好きなお客様にも嫌いなお客様にも最高の笑顔」っていうのがモットーかもしれないが、それは作られたもので最高じゃないよ。最高は心から感じたときにしか現れないものですよね。だから無理にマナーだからって押し付けるよりも、自然体で聴いてくれる状況になることが理想。その理想は誰が作るの?となると、すべては演奏家や主催者の責任でもあるんですよね。お客様に何か負担を与えてしまってはいけません、たとえそれが子供でも。演奏家はもっともっと考えるべきです。
アーティストを選ぼう!
だから子供たちが理想的に聴けるコンサートを探すには、まずアーティストを選ぶということだと思うのです。子供好きなアーティストなら多少のことはOKなはず。僕なんかの場合だと子供が動いていたとしてもまったく気になりません。子供OKのアーティストも実は多くいるし、外来の名ピアニスト達も「学生のため」「子供のため」のコンサートを行う人たちもいるし。子供たちが多く来てくれたコンサートを思い出すと、例えばプログラムが大曲中心の本格的なものであっても、子供用にアレンジした小品を並べたコンサートであっても、子供たちの反応は一緒だった。聴く子は聴いているし、寝る子は寝る、騒ぐ子は騒ぐ。
もっと面白いことに結構内容の濃い作品は、ちゃんと聴いてくれることが多い。子供だってわかるのである。そうは言っても二十五分を超える曲を弾けば、限界はあるようだ(笑)。そのあたりに僕らが注意すれば子供たちも、とても大事な聴衆になるのです。
「子どもは子ども向けへ」は悲しい
でもアーティストの中には子供が物音を立てることをものすごく嫌う人も多い。演奏に集中力を欠いてしまうし、気分的にも真剣さが失せる・・・・という感じなのだろう。しかしそれを演奏家のわがままとしてしまうのは確かに可哀想だ。真剣であるがゆえに、ぜひベストを出したいと思うのは僕らの共通の望みだから。子供たちの中にはまったく無関係に奇声を発する子もいるし。ここで演奏家の方が子供たちに対してアプローチをはかろうとする。
例えば僕もそうなのだが、子供たちに時には語り掛けたり、プログラムにない子供向けの曲を弾いてみたりと、コミュニケーションの取り方によっては、こちらが子供好きと認識してくれて、とてもフレンドリーになってくれる・・・しかしそれはすべてのピアニストに求めることは出来ないし、出来ない場合のほうが多いだろう。
さらなる問題は他のお客様。「せっかく音楽を聴こうと思ってきたのに子供がうるさくて集中できない」という声もかなり聞かれるものだ。もちろん「静かに聴いて欲しい」ということが前提であるに決まっているわけだし、どちらかというと僕のように寛大(?)かつ友好的な意見の持ち主は稀かもしれない。ただ僕は、子供向けコンサートにしか子供は行けないことになったら、とても悲しいと感じるのです。
大人が楽しめるものは子どもも楽しめるはず
もちろん僕は子供は騒いでOK!と言っているのではありません。常識的にしてはいけないことはあるし、実は子供たちも本能でわかるのです。それをいたずら心でわざと騒ぐ子がいたら、注意してあげなければならないでしょう。あらかじめそれを防御するためにか、コンサートの中には未就学児お断りの文字がはいっているのもあれば、逆にファミリーコンサートや子供のためと銘打っているのもあります。そうやって分類されていれば話は早く、気難しい人たちも演奏家も、子供のコンサートならば覚悟を決められるから問題はない・・・それはいい方法です。
で、こうした子供向けコンサートに行くにあたっての心がけを・・・・というのが実は今回の原稿の依頼のポイントなんですけどね、僕はね、自然体でいて欲しいということを言いたい上に、子供のため以外のコンサートでもアーティストのパーソナリティと次第によっては(曲目もですが)、充分にトライできるということを言ってしまっているわけです。クラシックのコンサート・・・確かに奥行きも深いし、独特の空間であることは間違いないけど、大人が聴いて楽しめるものは、子供も楽しめるはずだ!そんなスタンスの演奏家でいたいと思っています。
僕のハチャメチャ大爆笑ファミリーコンサート
ファミリーコンサートといってもいろいろですよね。僕がやっているハチャメチャ大爆笑シリーズみたいなのは、ぜひ遠慮なく大声で笑って欲しいけど、そうはいってもわりと教育的な、理屈の多いコンサートもけっこうあります。子供たちに「わかりやすく解説を」のつもりが、内容的にはなんか薄くなった上に面白くもない・・・・特にオーケストラを使ったものにこの手は多い。やはり人数が多い分小回りがきかないし、指揮者ってあんまりずっこけられないみたいだね。ここのところ僕がお付き合いしている京都フィルのように、団員がみんなエンターティナーの要素を持っていると、とたんにコンサートも面白くなってくるけど、そういうオーケストラはあまりないのが現実だし。
では小回りのきく小人数の室内楽やアンサンブルはというと、ファミリーコンサートとしてはさらに難しい要素がある。まあ、楽器紹介とかをしていくんだけど、ここでも楽器の特性をうまく使いながら面白く、かつ演奏はレベルの高いものをしなければシラケる。昔は生でチェロ等の楽器を見たことのない子供(親も)も多かったけど、今はそうはいかないしね。
たとえば歌の人がいると、かなりやりやすい面が増えるのです。ピアニストって横向いているでしょ?楽器奏者も結局楽器や譜面を見てるから、子供たちと目をあわせながら演奏できないんだよね。そこへいくと歌の人は正面向いて、目をクリクリさせながら、大きな声でオペラとかを歌うもんだから、子供も興味を持ちやすいんだ。またもし退屈させたら「トトロ」のような曲を歌ってもいいしね。そういう意味では「歌」って得な面がいっぱいあるね。
あとはピアノのソロのファミリーコンサートだけど、ピアニストは通常まじめな人が多いから、本人はかなりくだけてやっているつもりでも、見ている方からは、トークはついているがいつものテンションのコンサートになってしまうことが多い。僕は工夫としておもろいチラシを作ったり、コンサートの中でピアニストの形態模写をやったり、その都度面白い衣装を着て出てきたりしてやっているけど、その代わりプログラムはスクリャービンがあったり、あまりラフなものではなかったり妥協したくないんだ・・・なんかね、プログラムに「エリーゼ」とかいかにもの「愛の夢」とかは、避けたいんですよ。トークの部分で笑ってもらっても、演奏曲はなるべくピアニスティックなものをというのが、やはりピアニストとしての本能?と思っています。
誠心誠意、全力で対応する
子供のコンサートで大事なことがもう1つ。コンサートが終わってからのサイン会の時、親たちが目を輝かせて「楽しかった」「また聴きたい」等といって、興奮してくれてる割には、いっしょにいる子供が眠そうだったりする・・・・よくあることだがこれでは意味がないでしょ。多少やりすぎてしまって親の反感を買うことがあっても、やはり来ている子供たちが大よろこびする内容を考えたい。だって確かに「ピアノが好き」「ピアノが聴きたい!」って言ってくれてる子もいるけど、なかにはクラシックでも聴いてお勉強・・・・とまではいかないまでも「ためになるから」ということで、大人の都合で連れてこられた子もいっぱいいるはずである。その子たちにこそ楽しかったと思ってもらいたいのです。ついつい子供の視線を忘れてしまってコンサートを組み立てたり、評判を気にして捨て身になれなかったり(笑)しがちですが、そういうぬるま湯的な姿勢は子供に見ぬかれてしまうのである。子供のコンサートこそ命がけ、誠心誠意、アイデアを凝らし全力で対応していかねばならないと、僕は心から主張したい。だって相手は純粋な魂なのだから!
だからね、ぜひ堅苦しい気持ち出なくて、のびのびとした気持ちでコンサートにいらしてください。いいじゃないの、子供なんだから(笑)。
2001年10月号「2001ぴあのくらぶ夏の特別セミナー」
第1日目 ワークショップ@ 「自由な表現にトライ!」〜ピアノ音楽への楽しい誘い
講師:斎藤雅広(ピアニスト)
ピアニスト斎藤雅広氏はバッハからドビュッシー、グラナドスまでのピアノ曲について、子どもの指導の立場と大人の指導の立場から、軽妙な話ぶりで進める。名演奏家のスタイルの変遷を捉えることで、音楽の把握のしかたや個性の違いをわかる、ということをそれぞれ名演奏家のものまね演奏で示した。
美しいピアノ演奏と、音楽の楽しさを伝えようとする笑いに溢れたおしゃべりで、会場はおおいに沸いた。
2001年9月号「MUSICA the SPOTLIGHT」〜斎藤雅広CD
斎藤雅広のアラウンド・ザ・ワールド
「斎藤さんは、やっぱコスプレでしょう」・・・・おいおい、せっかく前作「マイ・ロマンス」でダンディな路線を作ったというのに、何てぇことを言うんだい!
頼むよ、コロムビア・・・・が、しかし「機長でごジャル?そうジャスかぁ、アナがち悪くないかも」というわけで、はじけたジャケットの新しいCD「アラウンド・ザ・ワールド」は、内容もショパンありラフマニノフあり、ムードたっぷり映画音楽からビートルズ、カンツォーネと盛りだくさん。ソロからジャズ・トリオまで大人の遊び心でいっぱい! オジサン(?)ならではのシブイ仕上がりでスタッフ一同大満足(自分で言ってるし・・・)、すっかりゴキゲンな気分です。ぜひ皆様もこのCDで、世界旅行を体験しませんかぁ? いや、ホントはとてもロマンティックな内容なんです。そしてメガネかけた機長も実際はいませんよぉ(笑)。対応楽譜も音友から出ます! こちらもどうぞよろしくお願いしまーす!
2001年7月号(P67〜69)座談会「第2回音楽を見つめ直すワークショップ」を前に
後編:子どもに音楽の楽しさをどのように伝えるか
塾にゲームに、とかく今の忙しい子どもたちにどのように音楽を教えるか。ピアノ教育、学校教育の現場の教師たちが集まって、これからの子どもの音楽教育について考える「音楽を見つめ直すワークショップ」が、今年も8月24日、25日に音楽の友ホールで開催される。これに先立ち、24日に「自由な音楽表現にトライ!」というテーマでセミナーコンサートを行うピアニストの斎藤雅広さんと、25日に「音楽でコミュニケーション」というテーマでワークショップを開く「ぴあのくらぶ」とで座談会を開いた。ソロに室内楽に多彩な演奏活動をしながら、「キーボーズ」として子どもたちに音楽の面白さを伝える斎藤さん。音楽への取り組みは自由で真剣でした。
【出席者】 ピアニスト:斎藤雅広 / 「ぴあのくらぶ」:飯田和子、谷口啓子、中森智佳子
◎心を揺さぶられた経験がレッスンを長続きさせる◎
ぴあのくらぶ:斎藤先生は、クラシック音楽のファン層を広げる活動をいろいろしていらっしゃいますね。最近の音楽の状況についてどのように感じていますか。
斎藤:クラシック音楽というのは伝統音楽ですね。だから、それに求められるものというのは不変、普遍なものなのです。クラシックというのは簡単にいえば200年前のヒット曲がいまだに演奏されている、ということですよね。ヒット曲というのは2ヵ月ぐらいしかもたないものだから、普通に考えれば、伝統のない日本において衰退していくのは、ひょっとしたら当然かもしれません。手を変え品を変え、そうならないようにしなければならないのだけれども、元が伝統なので、自由にできないところがあります。
もし今クラシックが衰退しているとすれば、それは時間をかけて衰退してきたものだから、時間をかけて戻していくしかない。我々が演奏会をやって、それを聴きに来てくれた人たちが、今度は別の人たちを連れてまた来てくれる、そういう活動がいちばん大事かな、と思います。
ぴあのくらぶ:クラシックの場合、私たちの目の前にあるのは作曲家の残した楽譜だけですから、その作曲家の生きていた時代の様式なり社会背景なりがわからないと、この音楽がどのように生まれたのかが本当には理解できないですよね。子どもたちには、そこまで興味を持ってほしいと思うのですが、今の子どもたちは飽きっぽいし、やることがたくさんありすぎて忙しい。そういう中でどういうふうに興味をひきつけるか、というところです。
斎藤:日本人の国民性は、「これはこういうもの」と割り切れるシンプルなものを好む傾向がある、と思うんです。例えば、お寿司にしてもネタとご飯からできていて、素材が一目瞭然ですよね。フランス料理のように素材が何かわからないけれど美味しい、というのと違う。ヒット曲などでも、単純明快で誰が聴いてもわかるというのがヒットする傾向があるようで、制作側も、内容よりもわかりやすさをついていく。だから、ものすごくわかりやすく見せてあげる、というやり方もあるということですね。例えばフランス料理のレシピのように、どういうふうにできているかを説明して、興味をうまく引き出してあげるようなアプローチがよい、と僕は考えています。
僕が子どもを教えるときは、この曲はこんなふうに弾けるんだよ、という具合に子どもの前で実際に弾いてみせます。子どもは、自分の演奏とは全然違うものを目の当たりにすれば、わかるんですよ。そして興味を持ちます。「自分の弾いた曲はこういうふうにもなるんだ」と。それからどのように弾くか設計図を見せてあげる。「そこは違うよ」とか「こうだよ」と口で言っても、我々だって留学して何年もかけて体得するものですから、すぐにはわからない。
ぴあのくらぶ:子どもの前で実際に弾いてみせて、現実の本当の音を与えるというのは、素晴らしいことですね。音楽は心に直接入っていくものだから、理屈じゃなくて、心が揺れる、揺さぶられる。それが子どもの経験になる。ピアノを習い続けてきた子どもはやはりどこかで、そのような経験があるんですね。頭がよくて指先が器用で努力家で、それだからピアノが続くというものではけっしてない。音楽で心を揺さぶられた経験のある子が、下手で時間がとれなくても「やっぱりピアノを続けたい」という意志を思春期に入ってみせるんです。
本物の音楽によって子どもの心をとらえる、その経験なくしてはすべて空しいと思います。私のような街のピアノの先生は、最終的には生徒が音楽が好きな人になってほしい、と思っていますから、基礎的な能力・・・読譜力や最低限のテクニックをつけさせて、あとは心を動かされた経験をどのくらい持ってもらえるか、ということが大事だな、とこのごろ強く思います。
◎面白いものに大人と子どもの区別はない◎
ぴあのくらぶ:ホームページを拝見すると、先生は子どもやお客さんに「本物」の素晴らしさを伝えたい、という気持ちを強くもっていますね。
斎藤:僕は、大人が面白いと思わないものは子どもにだって面白いはずがない、と思うんです。僕はイラストを書くものですから、アニメをよく見ているのですが、大人の自分から見ていて面白いと思うものはやはりヒットする。『ポケモン』だって大人がほろりとさせられるようなところがあるんですよ。
ファミリーコンサートで《エリーゼのために》などを弾いても、普通のお勉強スタイルの説明をすると、どうしても専門的な知識が入ってきて、説明自体がわからない。やさしい曲なのにかえって難しいと思われてしまいますよね。説明というのは難しいからするので、やさしかったら説明は要りません。見てのお楽しみ、とやればわかる。説明する以上は簡単明瞭がいいし、わかりにくい曲をやったほうがいいと思います。難しい曲は難しいという前提で聴かせたほうがいい。難しい曲は内容があるし、アンテナを立てている子どもには、伝わったときの感動が大きいと思うんです。演奏会ではすべての子どもに興味を持ってもらえるわけではありません。でも興味を持っている子どもにはもっと興味を持ってもらえるわけです。アンテナを立てている子どもたちにさんざん説明しておいて、やさしい曲とか編曲したものとかを聴かせてはいけませんよ。ベートーヴェンだって《運命》の「ジャジャジャジャーン」だけ聴かせてもなんの意味もないでしょう。第1楽章を全部聴かせたら半分の子どもは退屈するでしょう。でもこの曲の構造を説明してあげれば、興味のなかった子の半分も聴いてくれる。だからせめて1楽章はまるまる聴かせてあげたい、と思うのです。「ジャジャジャジャーン」で曲ができていることを説明してあげてから聴かせれば、ちゃんとした曲になっていることがわかって感動するのではないでしょうか。「ああなるほど」と子どもたちにも空気や雰囲気はわかるものです。
◎「伝統」とは、ピアニストが実際の演奏で横み上げたもの◎
ぴあのくらぶ‥これだけ世の中にいろいろな音楽がいっぱいあっても、クラシック音楽がはじめから好きな子もいれば、現代音楽の響きや音が大好きで、そのような曲ばかり弾きたがる子もいます。子どもはみな違うからそれは当然だと思うんですよ。それをひとつのものに限ってしまって子どもがそれしか知らないで反発したり、あるいはそれだけしか受け入れられない、というのは最悪ですね。だから教育の中では、なるべく多様な音楽に子どものときから触れさせるということが、非常に大事だと思います。
私たちは、自分自身がピアノという楽器が大好きだから、子どもにもピアノを大事に思って幸せな時間を持ってほしい、と思っています。ジャンルとかそういうこと以前に、ピアノという楽器は、1700年くらいのバロック時代の曲から最近のJ-POPの曲まで、弾こうと思えばなんでも弾ける楽器ですね。これだけ長い年代の音楽が演奉できるのに、限られたものしかやらないというのは、とてももったいない。簡単で単純なものでもきれいな曲がいっぱいある、ということを教えたいですね。
例えばモーツァルトの曲などを弾かせるときには、その時代の洋服の話や気分の話から始めます。クラシック音楽なんて大げさに思うのではなくて、歴史の上をお散歩できることの楽しさを子どもに教えるんです。いろんな年代の曲を楽しめる幅広さを子どもが持ってほしい、と思っています。
斎藤:よく「これはショパンではない」ということをいう評論家の方がいますが、その実態は何もない。「伝統」というのは、実はピアニストたちが実際にいろんな形で演奉して積み上げてきたものが、ひとつの形となったものです。楽譜をもとに実際に音にしたものが継承されてきた。その時代時代で、どのようなスタイルで演奏されてきたか、というのが大事なのであって、特にいまクラシック音楽が衰退してきた中で、原典主義で「こうでなければいけない」と限定することはあまりよくないことです。面白い解釈で弾く人はそういう解釈が好きになってくれるお客さんがいますし、好みは時代とともに淘汰されます。過去の演奏家や今の演奏家のスタイルの変遷を見ていく、というのは大事ですし、特に過去の演奏家はみな個性的な人が多いので、とらわれないでやっていく、というのが大事だと思います。
例えば恋愛にしても、人を好きになるという根本的なところでは同じでも、今の恋愛のイメージとリストのころのイメージは違いますよね。演奏も時代によって違うのです。だからリストの《愛の夢》などを演奏するときでも、どんな「愛の夢」にするのか、というのはこちらに自由に与えられている。楽しい夢なのか、不幸な夢なのか、憧れを表わすのか、それによって演奏のスタイルというのはずいぶん変わってくるでしょう。
僕はそういう楽しみ方があっていいと思いますし、これからはそういうことでないと楽しめないと思うのです。作曲家の時代背景を勉強しておいて、でも気持ちは現代人で、いろいろな気持ちで遊ぶというのが、いちばん面白いと思いますね。
2001年2月号(P33)「表紙の人」応援メッセージ
とにかく英語が心配・・・私の芸大入試大作戦
学生時代・・・あんないいかげんな時期の事を書いてどーなるの??? え、受験のコツですと? ないない、じゃあね!・・・だと終わってしまう。それでは他の人が書けないネタをご披露いたしましょう。
とにかく私達の世代は共通一次もまだだったから、そりゃもう適当な時代だった。芸高の数学や生物の授業なんて、落語のヨタローも逃げ出す大爆笑の低レベル。おかげで楽しかったなあ。なんせまだ男の子でピアノやってるのが珍しく、けっこう小中学生のころはイジメられた・・・そういう連中が一堂に会したのだから、もうはじけるしかない・・・つけやきばの不良少年の誕生!(笑)
しかし英語は難しかった・・・というか中学は静岡県内で8番と下らない成績だったのに、チンプンカンプン・・・で私は芸大受験はとにかく英語が心配だった。そこで考えた大作戦・・・クラスで1番頭のいいM子を拝み倒し、まずは受験票をのりづけして発送・・・当然彼女は私の前の席に座るから、チラリと見せてもらう・・・もう完璧だ。
ととととと、ところが受験番号を見たら、何とM子と私の間に、1人外部からの受験生がはいってしまったではないか。おまけにその子は去年学科で落ちた浪人生・・・まずい・・・何としてもこの子を落とさねば(うう、悪魔のような考えだ)・・・で、かなり大胆で押しの強い、いかにも目立ちそうなバリっとした演奏に切り替えて、実技をガンガン弾きまくった・・・すると・・・落ちた落ちた、その子は消えた(ああああ、何とひどいことを)・・・そしていよいよ学科試験の当日、まさに計算通りM子と続き番号になった私は、M子の後ろの席に座り楽々と試験を突破・・・するはずだったのだが当日会場に行くと、M子は一番後ろの席から最前列の私に笑顔で手をふっていたのだった。
というわけで、受験、特に実技は長時間にわたって同じ曲を延々と聞かされ眠くてうんざりしている試験官に、一発おみまいする目覚まし時計のような演奏をする必要がありますね(笑)。何もガリガリと弾くばかりではなく、叙情的なスタイルでもgood、ま、コントラスト(めりはり)はクリアーな方が点は高いでしょう。そして少なくても自分の前後はけちらす気迫で(笑)。・・・ただ自分の前の人が抜群にうまかったり、気迫で勝っていたりしたら・・・気後れするでしょうね・・・でも自分の人生がそんな事に負けてはつまらないです。よく誰が聴いても下手くそな演奏家を批評家が絶賛してたりするじゃないですか。人の好みはホントにわかりません(大爆笑)ので、自信を持って自分の魅力をアピールしてください。気楽にステキにできた時が、きっとグッドラック。
2000年2月号(P2〜3)「ピアニスト・アナリーゼ」
僕は“予告編”のプロ
1997年4月、ブラウン管に登場した斎藤さんの姿に、だれもが驚いた。
「コメディアン?」「キーボーズ・・・」
黄色いメガネをかけ、紫の派手な袈裟を身にまとい、ピアノを弾き芝居をする。
カメラに向かい「イエー」とピース・サインまでしてみせるおどけぶり。
斎藤さんのお父様は、喜劇をもっとも得意とした芸達者なオペラ歌手。その血を受け継いでいるとはいえ、「芸大のホロヴィッツ」と言われた人に、いったいどんな転機が訪れたのだろう?
「私は神経質で完璧主義者なんですよ」
と斎藤さん。その性格は、演奏する彼にも聴き手にも、必要以上の緊張をもたらした。
プレッシャーによる自縛に苦しんだ彼が見いだした道が、いまの路線だった。
それはクラシック初心者のために、楽しいおしゃべりでリラックス・ムードを演出した上で、音楽を提供する活動。
「目指すは、映画でいうところの予告編」
バッハならバッハのおいしい部分だけを抽出して聴かせ、「バッハをもっと聴いてみたい」とお客さんが思えば大成功!
後のことは、いわゆる正統派ピアニストにもおまかせできるというわけだ。
そんな彼の活動を、「よくやるよ」、「受け狙いだね」と揶揄嘲弄する人も。
「でも低いレヴェルの演奏では、たとえおしゃべりでごまかしても、予告編の務めは果たさない。簡単ではないさ」と。
プレッシャーとの闘いは終わったわけではない。演奏とおしゃべりの巧みな切り替え、その日の客層や一瞬一瞬の客席の反応に合わせるとっさの判断・・・、気を抜く暇などない。
家路につくお客さんの表情が、なにより気になるご様子の斎藤さん。
やはり斎藤さんは、どこまでも完璧主義者だった。
[誌上には、都庁前にカッコよく(?)たたずむ紳士斎藤雅広(?)の写真が掲載されています。是非、バックナンバーをお求め下さい。・・・う〜ん、バックナンバー買って欲しさに若干のウソをついた私をお許しくださいm(__)m。]
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